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テーマ決めて、感想語り合ったり意見交換したり。読書はアウトプットが9割の金言のもと、感想をアウトプットしあいましょう。
大変遅れてしまっての感想になります…すみません……。 その時期によって変わりますが、今は消極的ニヒリズムに近いことを考えていた自分にとって、読み物として面白く色々考えさせられました。
念仏を唱え、本願の大悲に助けられていく。
そこに善人悪人の差別は無く、人々をフラットに近くした上での考え方…思考実験として、ジョンロールズの正義論での、無知のベールに近いのかもなぁと、昔勉強した事を思い出しました。
個に集中した考え方なのか、社会全体の考え方なのか、時代の成熟度で視点が違うのかな、キリスト文化で違うのかな、コミュニタリアンでいうところの共通善にあたるのかな…
などなど、時代や国は違えど、人である以上は同じような考えをしてるのかなとか、無い頭で妄想するのも楽しかったです。
ただ、個人的に刺さる所が…というのか、置き換えられる所があまり無かったので……
唯円さんのように、これダメー、はい異教ー!としないような、懐深いスタンスと、摂取不捨の利益でいうような、ある種積極的ニヒリズムに近しい考え方は心に留めておこうと思いました!
何ヶ月も遅れた上に、これ程に拙くてすみません…。゚(゚´ω`゚)゚。
歎異抄〜感想〜
歎異抄を読んで一番に感じた事は、
「物事の本質をどう見抜くのか、自尊の領域をどう定めるのか」でした。
自分の価値観がどこまで正しいのか
認知バイアスはかかっていないのか
自分の影響力の及ぶ範囲はどこまでなのか
物事に正しいか否かは本当に存在するのか…などなど
主観と客観のバランスを常に意識していたいなと思える内容でした。
これは、芝居にも通じていると思います。
台本の読み解き、キャラの考察、作品の考察等、
いかに選択肢を増やせるか
その中で自分は何を一番におくのか
対応力は勿論、物づくりのポイントはこの主観と客観のバランス、行き来にある気がします。
宗教に関しては、よく出来たシステムだなという感想です。
完全教祖マニュアルという本を読んでから読み返すと、
宗教としてどうポイントを抑えているのかが分かりやすくなるので、エンタメ的な楽しみ方もできるかと思います。
とても背徳的な気がしますが。
拙い文章になりましたが、以上が僕の感想です。
役者であれば、一度は読んでみても良いと思える内容でした。
@fumiyama1192z
コメントありがとうございます😊
歎異抄の名の如く、
歎 うなだれ
異 異なること
抄 抜き出す
自分の信心が、異なって伝わる事に
うなだれ綴ったものですね。
そんな話なものだから
主観と客観のバランスが気になったというのも、よくわかります。
親鸞が生きた時代 当然日本はひとつの国ということではなく、それぞれの土地で文化が育まれ色が育っていたことでしょう。
教えが歪んで伝えられていることに嘆き、本当はこうなのだと正そうとするのって 守 ってことですから、唯円が師匠思いだったこととその教えを抱えこんでいる駱駝の状態でもあったのかなぁとコメントを書きながら考えています。
なにが正しく、なにが誤りであるかはその者の立ち位置にもよります。
自身の立ち位置を知り、相手の立ち位置を知りどうなりたいのか、どうしたいのかを考える。
歎異抄は主体性をどこへ置くのかと、他者貢献、社会参加につながる話でもあります。
阿弥陀さんでもあるまいし、すべての人を助ける事はできはしません。じゃあ、その助けられなかった人は見捨てるのかって聞かれたら、誰を助けるかは自分が決めるとこたえるのが歎異抄なんですよね。
バランスだけを考えていては、他者の目を気にして生きるということにもなりますが、それでは自分の思考を捨てていることにもなります。どうしたいか考え、どうしようもなくなり、他力を頼むのが歎異抄。
すなわち、主体性なき他者貢献は自分のことしか考えていない自力とそう変わらないということではないでしょうか。
どんな役割があり、自分は相手になにで貢献できるか。それを達成するためにいかに協力しいかに他者を助けられるか。
考え出したらキリがないですが、ターゲットやらペルソナやら考えてると自力の袋小路にハマる…なんてことにもなりかねませんからね。
いろんな情報集めながら、最終的には他力を頼むってことを忘れないようにしないといけませんな。
歎異抄、岩波文庫版(と個人的にもう一冊別の出版社さんのものも読みました。が、訳した方や補足でだいぶ印象が違っていたので、感想文は岩波文庫さんのものとします。注意はしたつもりですが、万が一別の解釈が混ざっていたら申し訳ありません;)
何度も何度も同じページや考えを繰り返し読み直していたので、書くまでに随分時間がかかってしまいました。
以前も書きましたが、どちらかと言うとキリスト教よりの人間で(そんなに熱心ではありませんが)
仏教にはとても疎く、基礎知識がお寺にたまに行く程度の『無宗教な日本人』程度にしかない為、コレ本当に理解できるかな??大丈夫かな??と思ったのですが、
意外や意外、補足がお上手なのか、根本が聖書に通ずる所もあるからか(偉い人には怒られてしまう表現かもしれませんが…言っている事、教えたい事は同じだな。という部分が多々あります)
すんなりと読む事が出来ました。
ただ、文体がひらがな多めの古い文体なので、一見現代人には凄く読みづらくて😖おぉぅ…となったのですが、
音読すると不思議にするっと理解出来て、口語にすると時代の差を感じなかったです。
最終的に小声で音読して読み進めました。
不思議なもので、お経ではないのですけれど、音読しているだけで心が落ち着いて穏やかになりました。
プライベートで今ちょっとメンタルが凹みがちな時期だったので、歎異抄音読に随分助けられました。
良いタイミングに良き本のお薦め、本当にありがとうございました♪
長々書いてしまいましたが、やっと本編の感想文です。長いわ!(自己ツッコミ)
オススメされる時も、善人と悪人のお話をされていて、悪人讃美の本だと誤解された方も居るかもしれないのですが、読んでいくとそうじゃない、そこじゃない事が解ります。
大前提として、善人だろうが悪人だろうが
『死んだら皆浄土へ行く』という前提があるから
悪人は浄土へ行けない、地獄に堕ちるなどの概念はない。
だから善人も悪人も一緒だよ。という話。
また、それに不公平感を持った『善人』が、『じゃあ俺らも悪い事しまくっちゃえばいいじゃん!ヒャッハー』しちゃった話も載っていて、そこもキチンと説明されていたので良かったです。
見出し等で悪人讃美本だと思った方には、そうじゃないよ、と。拒否感持たずにご興味ある方には読んで頂きたいな…と思いました(勿論無理には薦めません。仏教にも色んな宗派はありますし、皆に薦めるのは難しいかなと思います)
仏教的な話で、悪人が救われるなんておかしい。という概念は
『蜘蛛の糸』のお話で皆すり込まれているのかなぁ。と思ったりもしました。
あのお話に出てくる人達が落ちていくのは、まぁ仕方ないかな…と思うのですが、
そもそもあの地獄や、助けないお釈迦様という概念が無いんですものね。
私はあの「1人だけなら助けてやろう」みたいな神様こそどうかと思うのですが…😂
歎異抄の教えだと、そもそもあの話は起こらない状況ですもんね。
悪事をするたび廻心せよ、はキリスト教の懺悔に通ずるな〜と感じました。
ただ、コレも懺悔さえすれば何しても良いんだろ?などと言ったりやったり
免罪符を金で買えば解決出来るんだろう。みたいな間違った悪用が流行って腐敗しましたね。
その辺り『大きい仏、小さい仏』にも通ずると思いました。
現代でも戒名のランク?が御布施の金額で決められるとか。
家族親族のお葬式でなんやかんや言われていたのを思い出します。
そういう所でマウント?を取りたがる人は居るもので、まぁお坊さんもボランティアじゃないと思うので儲かるのは良い事だと思うのですが
個人的には、文字数だのつく漢字だのがお金で決まる、買えるってシステムには全く魅力を感じないです。
亡くなった御本人が希望していたなら、やってあげたいですけどねぇ…
なにより、長ったらしいと書くのも覚えるのも面倒です。失礼かな😂
墓石のデザインは格好イイモノにしたいですが!生きているうちに自分の気に入るお墓を買うのがひそかな夢だったりします。
大きい仏小さい仏の話、それについて感じた免罪符の話についても
『聖書に書かれた事だけを信じろ』というプロテスタントの方向性に似たものを感じました。
初志貫徹、ちゃんと教えの根本を守れ。
金儲け主義や、最初の教えに書いてない事を勝手に捏造して語る人に惑わされるな。という。
何度も何度も読み返して、考えて、
音読している間にふわぁ〜と心が軽くなって。
とても良い読書会、読書タイムでした(●´ω`●)
また、読書会や星野コーチのお薦め本、楽しみにしています♪
長々失礼致しましたm(._.)m
コメントありがとうございますー。
芥川は好きで、蜘蛛の糸もとても大切な生涯課題のひとつです。
蜘蛛の糸がカンダタのところからプツリと切れてしまうのが御釈迦様の意図するところなのかはたまた偶然のなす事故か…
御釈迦様がカンダタの自分だけが助かろうとする様をご覧になり、悲しそうなお顔をされるところなんかは歎異抄の第四条に通じるところがあるなぁと思ったりします。
『いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし』
…どれほど愛おしい相手でも思いのままに助けることはできず。慈悲は完全ではない。
ー決して思い通りにならない日常の本質を引き受けて、それでもなお生きよー との一節が思い起こされます。自分が助けたいと思っても行動するのは相手、その相手にしたって天災や災害などどうしようもない災禍によっては他力を頼むこともできず。どうにもならないからこそ他力を求めるわけですわな。
カンダタもあそこで、自分のものと考えず、御釈迦様に救いを求めて蜘蛛の糸が切れないようにと願いながら天を目指せばあるいは…ということがあったかもしれません。
こうした宗教観や社会との関わり方を知れば知るほど、物語は深みを増しますねぇ。
@星野 貴紀 コーチ
星野さんお返事ありがとうございますm(._.)m
せっかくお時間頂戴してお返事を頂いたので、蜘蛛の糸を改めて読み返してから返信しよう…と何年ぶりでしょうか。蜘蛛の糸を読み返してみました。
大筋は記憶している内容そのままなのですが、歎異抄を読んだ影響+年齢を重ねたからなのか、今まで考えなかった事まで気になるようになってしまって。
ページ数は少ない短篇ですが、だからこそ何度も何度も読み返しては「うーん…」と唸ってしまって
今日こそお返事書こう。いやでもああでもないこうでもない…やっぱり明日もう一度読んでから書こう…などとしている間に1週間経っていました。
1週間蜘蛛の糸と格闘していたかと思うと、昇り始めてそう長くない時間で糸が切れ、また地獄に逆戻りしてしまった犍陀多に申し訳ない気持ちです。
まず歎異抄の影響なのですが、犍陀多はまず人物として「人を殺したり」「家に火をつけたり」と書かれていて、通常であれば極楽に行く事は到底有り得ない人間かと思われます。
それでも、理由はともあれお釈迦様は極楽に上げてあげようと糸を垂らして下さっているわけで
ここで「ん?」となりました。
あれ?悪人が救われているな?悪人が往生しているな?と。
地獄がある世界観の『蜘蛛の糸』でも、悪人が救われる事もあるのだなぁと。
人を殺した事より、蜘蛛一匹を生かした事が理由になるのか?など言い出せば色々とありますが、そこは神様の気まぐれのようなものかなぁ…と思っています。
蜘蛛の糸一本に人間が何百・何千とすがっても切れない(もっと言うと、犍陀多1人でも普通の蜘蛛の糸なら切れていると思われる)不思議なお釈迦様の力の糸ですから、
昇りたがっている皆全員を許容して昇っていけば、全員救われたのかもしれないですね。
それはそれで、その後極楽が大変な事になりそうだな〜と考えるとちょっとコミカルですがw
星野さんのお返事を見て、改めて歎異抄の四章も読み返してみたのですが、
人の身にはなかなか相手を救う。というのは難しいですね。
《誰かを救う=他の誰かを救わない事》だと言っている作品(ぶっちゃけてしまうとFateなのですが)を見て、実際そうだなと思いますし。
誰かを喜ばせると、それを見てやっかむ人は出てきてしまいますし、
平等にしようと思っても、平等にした事で不平等感が生まれてしまう事もあったり。
人ひとり、一個人でなくもっと大きなモノでないと正しい意味での救いや平等というのは難しいのかな…と思いました。
人間は人間なりに日々楽しく暮らしたいな。と思う次第です。
お話は少しズレてしまいますが、星野さんはじめ声優さんや俳優さん、その他作品作りに携わって下さっている方々のおかげで、生きる活力やある種の救いをキャラクターや作品から貰っています☺️本当にいつも素敵な時間の供給をありがとうございます❣️
いつもはどんな本を読んでもインプットだけで、アウトプットする機会もしようとする事もなかったので、今回とても良い体験が出来ました。
普段なら読み終われば一旦終わり。
読み返すにしてももっと期間を開けて、余程気に入った本を読み直すだけ。
こんなに同じ本を何度も短期間に読み直す、読み解く事は無かったので。久しぶりに脳をフル回転出来た気がします。
楽しい機会を有難うございましたm(._.)m
また、星野コーチのオススメ本や、映画の観賞会等楽しみにしています。長文失礼致しました。
『歎異抄』 (岩波文庫 青318-2)
第一回は、親鸞の歎異抄(金子 大栄 校注)です。参加希望の方は同書をお読みの上コメントにてご参加ください。
歎異抄
書いてあることを置き換えながら読むクセがついている自分ですが、自分に都合のいいように解釈しているという事もあるかもしれません。
ぜひ、様々なお話ができますよう。
俳優として大成することも、善人として極楽へと往生するのも何れも並々ならぬ苦労があります。
歎異抄は、ひとりで出来ることは限られているから無理せず他人を頼りなさいよ
と、言われているかのようで、自力のみで大成しようとしていた若い自分にそっと勧めたいなぁと思えるような本でした。
自分などは、大いにその傾向があるのですが何か課題にぶつかった際などに、人に相談せず自力のみで解決しようと試みる事が多々あります。
もともとお山の大将気質だということもあり、誰か他の人に頭をさげるということが好きではありませんでした。
他所様に求める助けを負けることだと思わなくなったのは、主演かつスタッフとして参加していた公演の際に先輩に言われたひと言でした。
『タカ、信頼と信用は違うんだぞ。タカがなんでもやりたいのは知ってるし、なんでもできるようになろうとしてるのはわかるけど、手が足りない時には頼ってくれよ。信用はしてくれなくてもいいからさ。』
今回歎異抄を読んだ際に、この言葉が思い起こされました。
人間、どうにもならない時はある。
時間に、お金に、健康に…すべてを自分の思うがままに、かつ自分ひとりの力で満足のいく水準にまで引きあげるのは不可能に近い。
それは俳優の仕事にも繋がります。
俳優は商品であり、買ってくれるお客様、使ってくれるクライアント様がいなければ成り立たない商売です。
そう、自力ではなにもできない。それが俳優なのです。
演じる事はできても、脚本を書く才、音楽を作る才、広告をする才、より良く見せる才…様々な才能が集まって作り上げているのが総合芸術ともいわれる舞台の本質です。ひとりにスポットライトが当たっている裏では誰かの支えが必ずあります。
そう、俳優こそ他力を頼まねば本願を果たす事はできないのです。
デビューして間もない頃、レギュラーの座長をしていらした先輩に
『声優の世界は地獄みたいなもんなんだ。』
と、言われたことがあります。
これだけ聞くと ギョッ とするかもしれませんが続きがあります。
『地獄では、大勢の餓鬼が目の前にあるたくさんのご馳走を腕よりも長い箸を使ってどうにか食おうとしている。餓鬼は自分のことしか考えないからご馳走を独り占めしようとするし、自分だけでなんとか食おうとしてる。星野は、どうやったらご馳走にありつけると思う?』
そんな質問をされました。
自分の事しか考えなければ、腕よりも長い箸で飯は食えず、
独り占めしようとすれば、他の餓鬼に恨まれよう。
恨みを買えば地獄のようなこの世界、長く生きてはいられまい。
考え、先輩に返した答えはこうです。
他の餓鬼に食べさせてもらう
先輩は厳しい顔をクシャっとくずし、正解だと言ってくれました。
『オレたちはひとりでは何にもできない。きらびやかで派手な面だけが見えるけれども、たくさんの試練と苦労がある地獄みたいな業界だ。しかも自分の裁量で飯が食えるわけでもない。誰かに食わせてもらう仕事だから、誰かが困っていたら助けてやるんだぞ。』
と。今思えば、この言葉も他力の考え方に繋がります。
親鸞が父母のために念仏を唱えなかったように、自分のために独り善がりの演技をしないこと。自分が善かれと思った事でもそれが他力に求められていなければ独善となります。
役のため、作品のため、スタッフのため、視聴者のため。自分にできることを他所様にお渡しする。そうすることで結果、おおきな力となるのです。
そうして自力を離れ、他力自然に行われるようになればそれはすなわち、他人との縁を起こすということ。
縁を起こす。すなわち、縁起です。
演技は縁起ともいわれるように、他所様との縁を起こさなければなしえません。
歎異抄は、一貫してこの縁を起こすという話のように星野は捉えました。
このオンラインサロンで、読書会に参加していただいた皆さんとも縁あってのこと。
今後もたくさんの縁が起こせますように。
大変遅れてしまっての感想になります…すみません……。 その時期によって変わりますが、今は消極的ニヒリズムに近いことを考えていた自分にとって、読み物として面白く色々考えさせられました。
念仏を唱え、本願の大悲に助けられていく。
そこに善人悪人の差別は無く、人々をフラットに近くした上での考え方…思考実験として、ジョンロールズの正義論での、無知のベールに近いのかもなぁと、昔勉強した事を思い出しました。
個に集中した考え方なのか、社会全体の考え方なのか、時代の成熟度で視点が違うのかな、キリスト文化で違うのかな、コミュニタリアンでいうところの共通善にあたるのかな…
などなど、時代や国は違えど、人である以上は同じような考えをしてるのかなとか、無い頭で妄想するのも楽しかったです。
ただ、個人的に刺さる所が…というのか、置き換えられる所があまり無かったので……
唯円さんのように、これダメー、はい異教ー!としないような、懐深いスタンスと、摂取不捨の利益でいうような、ある種積極的ニヒリズムに近しい考え方は心に留めておこうと思いました!
何ヶ月も遅れた上に、これ程に拙くてすみません…。゚(゚´ω`゚)゚。
歎異抄〜感想〜
歎異抄を読んで一番に感じた事は、
「物事の本質をどう見抜くのか、自尊の領域をどう定めるのか」でした。
自分の価値観がどこまで正しいのか
認知バイアスはかかっていないのか
自分の影響力の及ぶ範囲はどこまでなのか
物事に正しいか否かは本当に存在するのか…などなど
主観と客観のバランスを常に意識していたいなと思える内容でした。
これは、芝居にも通じていると思います。
台本の読み解き、キャラの考察、作品の考察等、
いかに選択肢を増やせるか
その中で自分は何を一番におくのか
対応力は勿論、物づくりのポイントはこの主観と客観のバランス、行き来にある気がします。
宗教に関しては、よく出来たシステムだなという感想です。
完全教祖マニュアルという本を読んでから読み返すと、
宗教としてどうポイントを抑えているのかが分かりやすくなるので、エンタメ的な楽しみ方もできるかと思います。
とても背徳的な気がしますが。
拙い文章になりましたが、以上が僕の感想です。
役者であれば、一度は読んでみても良いと思える内容でした。
歎異抄、岩波文庫版(と個人的にもう一冊別の出版社さんのものも読みました。が、訳した方や補足でだいぶ印象が違っていたので、感想文は岩波文庫さんのものとします。注意はしたつもりですが、万が一別の解釈が混ざっていたら申し訳ありません;)
何度も何度も同じページや考えを繰り返し読み直していたので、書くまでに随分時間がかかってしまいました。
以前も書きましたが、どちらかと言うとキリスト教よりの人間で(そんなに熱心ではありませんが)
仏教にはとても疎く、基礎知識がお寺にたまに行く程度の『無宗教な日本人』程度にしかない為、コレ本当に理解できるかな??大丈夫かな??と思ったのですが、
意外や意外、補足がお上手なのか、根本が聖書に通ずる所もあるからか(偉い人には怒られてしまう表現かもしれませんが…言っている事、教えたい事は同じだな。という部分が多々あります)
すんなりと読む事が出来ました。
ただ、文体がひらがな多めの古い文体なので、一見現代人には凄く読みづらくて😖おぉぅ…となったのですが、
音読すると不思議にするっと理解出来て、口語にすると時代の差を感じなかったです。
最終的に小声で音読して読み進めました。
不思議なもので、お経ではないのですけれど、音読しているだけで心が落ち着いて穏やかになりました。
プライベートで今ちょっとメンタルが凹みがちな時期だったので、歎異抄音読に随分助けられました。
良いタイミングに良き本のお薦め、本当にありがとうございました♪
長々書いてしまいましたが、やっと本編の感想文です。長いわ!(自己ツッコミ)
オススメされる時も、善人と悪人のお話をされていて、悪人讃美の本だと誤解された方も居るかもしれないのですが、読んでいくとそうじゃない、そこじゃない事が解ります。
大前提として、善人だろうが悪人だろうが
『死んだら皆浄土へ行く』という前提があるから
悪人は浄土へ行けない、地獄に堕ちるなどの概念はない。
だから善人も悪人も一緒だよ。という話。
また、それに不公平感を持った『善人』が、『じゃあ俺らも悪い事しまくっちゃえばいいじゃん!ヒャッハー』しちゃった話も載っていて、そこもキチンと説明されていたので良かったです。
見出し等で悪人讃美本だと思った方には、そうじゃないよ、と。拒否感持たずにご興味ある方には読んで頂きたいな…と思いました(勿論無理には薦めません。仏教にも色んな宗派はありますし、皆に薦めるのは難しいかなと思います)
仏教的な話で、悪人が救われるなんておかしい。という概念は
『蜘蛛の糸』のお話で皆すり込まれているのかなぁ。と思ったりもしました。
あのお話に出てくる人達が落ちていくのは、まぁ仕方ないかな…と思うのですが、
そもそもあの地獄や、助けないお釈迦様という概念が無いんですものね。
私はあの「1人だけなら助けてやろう」みたいな神様こそどうかと思うのですが…😂
歎異抄の教えだと、そもそもあの話は起こらない状況ですもんね。
悪事をするたび廻心せよ、はキリスト教の懺悔に通ずるな〜と感じました。
ただ、コレも懺悔さえすれば何しても良いんだろ?などと言ったりやったり
免罪符を金で買えば解決出来るんだろう。みたいな間違った悪用が流行って腐敗しましたね。
その辺り『大きい仏、小さい仏』にも通ずると思いました。
現代でも戒名のランク?が御布施の金額で決められるとか。
家族親族のお葬式でなんやかんや言われていたのを思い出します。
そういう所でマウント?を取りたがる人は居るもので、まぁお坊さんもボランティアじゃないと思うので儲かるのは良い事だと思うのですが
個人的には、文字数だのつく漢字だのがお金で決まる、買えるってシステムには全く魅力を感じないです。
亡くなった御本人が希望していたなら、やってあげたいですけどねぇ…
なにより、長ったらしいと書くのも覚えるのも面倒です。失礼かな😂
墓石のデザインは格好イイモノにしたいですが!生きているうちに自分の気に入るお墓を買うのがひそかな夢だったりします。
大きい仏小さい仏の話、それについて感じた免罪符の話についても
『聖書に書かれた事だけを信じろ』というプロテスタントの方向性に似たものを感じました。
初志貫徹、ちゃんと教えの根本を守れ。
金儲け主義や、最初の教えに書いてない事を勝手に捏造して語る人に惑わされるな。という。
何度も何度も読み返して、考えて、
音読している間にふわぁ〜と心が軽くなって。
とても良い読書会、読書タイムでした(●´ω`●)
また、読書会や星野コーチのお薦め本、楽しみにしています♪
長々失礼致しましたm(._.)m
『歎異抄』 (岩波文庫 青318-2)
第一回は、親鸞の歎異抄(金子 大栄 校注)です。参加希望の方は同書をお読みの上コメントにてご参加ください。